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シュウ



登場:原作(83〜93話)TVTVアニメ版(59〜66話)、他
肩書:南斗六聖拳 仁星の男 反帝部隊のリーダー 南斗白鷺拳伝承者
流派:南斗白鷺拳
CV:森功至(TVアニメ版、PS版、他)
   石塚堅(パンチマニア)
   上別府仁資(激打2)
   大塚芳忠(真救世主伝説、スマショ、リバイブ)
   吉水孝宏(北斗無双・真北斗無双)
   高橋広司(DD北斗の拳)
   内藤玲(DD北斗の拳2期)
   諏訪部順一(イチゴ味)

身体データ
身長:180cm
体重:90kg
スリーサイズ:120・89・100
首廻り:42cm


 南斗六聖拳 仁星の男。南斗白鷺拳の伝承者。聖帝軍に浚われた子供達を取り返すため、反帝部隊(レジスタンス)のリーダーとして戦いに身を投じている。シバという息子がおり、少年ながらレジスタンスに参加している。は既に他界。レイとは親友関係にある。

 かつて幼くして南斗十人組手に挑んだケンシロウに、果てしない可能性を直感。あえて10人目の相手として名乗り出てケンシロウを圧倒した。その後、掟により殺されるはずだったケンシロウの命を救い、その代償として己の両目の光を捨てた。

 核戦争の後、反帝部隊のリーダーとして聖帝軍と抗争を繰り広げる中、成長して帰ってきたケンシロウと再会。正体を隠し、命をかけて闘うことでその強さを確かめ、改めて彼こそがサウザーを倒せる唯一の男だと確信した。だがサウザーに挑んだケンシロウは、体の謎の前に敗北。捕えられたケンシロウは、息子シバの手によにって救出されたものの、当のシバは追っ手を食い止めるために自爆し、帰らぬ人となった。

 その後、遂にアジトを聖帝軍にかぎつけられたため、傷ついたケンを地下水路から逃がした後、たった一人で聖帝軍との戦いへ。サウザーとの直接対決に臨むも、100人の人質の前に手が出せず、足の腱を切られて敗北。その後、巨大な聖碑を抱えて聖帝十字陵へと登るよう言われ、人質100人の命と、南斗の崩壊を防げなかった己の贖罪のために聖碑を運んだ。だが登頂後、全身を弓で射られ、更にサウザーの放った槍が胴を貫通。だがその時、奇跡的に視力が戻り、成長したケンシロウの姿に涙しながら聖碑の下敷きとなり絶命した。


 TVアニメ版では、細かい追加エピソードが幾つかあったものの、基本的には原作からの変更点は無し。目の傷は左右とも目より上が三本線、目から下が二本線になっている(原作でも初登場時だけはそうなっていた)。



 「レイ外伝 蒼黒の餓狼」では、視力を喪失した直後、レイの修行の場を訪問。弟子のカレンと共に闇闘崖での修行を見守り、正式に南斗水鳥拳伝承者となったレイを祝した。
 アスガルズル編では、あご髭を生やして再登場。人質に捕らわれていたアイリ(偽)を救出することで、レイの危機を救った。その後、ロフウとの決着をつけることがレイの宿命だと告げ、そのロフウの仮面の下にある傷はリンレイがつけたものであることを語った。



[解説]

 聖帝編までの物語の中で、3人の南斗六星が登場した。一人目のシンは初登場時が全裸マントで、愛する人そっくりの人形を持つ変態だった。二人目のレイは、初登場時が女装で、マミヤのおっぱいを二度も拝観した変態だった。三人目のユダは、とにかく変態だった。「南斗の頂点に立つ男達はみんなこんな変態ばかりなのか!?」と疑念が沸き始めた頃、満を持して登場したのが、このシュウとサウザーの二人であった。シュウは一部の隙も無い善人、そしてケンシロウの恩人として。サウザーはそのシュウを無残に処刑した上、憎らしいほどの強さを誇る敵として。善と悪の両極端なシンボルであり、かつ変態要素の無い二人は、南斗六聖拳に確かな「格」というものを与えた存在であった。

 シュウの最大の特徴と言えば、やはりあの痛々しい傷痕走る光を失った両目だろう。盲目で戦うキャタクターと言えば、日本人である我々はやはり座頭市を連想し、同時に強キャラというイメージもセットでついてくる。視覚が閉ざされたことで逆に他の感覚が研ぎ澄まされ、目が見るより鋭敏に物事を見通すことができる。また、見た目に惑わされないことで物の本質を見極めることもできる。全盲キャラの特権とも言うべきお悟り設定だ。実際シュウがあのような穏健な性格になったのは、盲目になってからの事だと思われる。十人組手の頃の彼はどちらかというと常に厳しい表情を浮かべていたし。

 足技を主体とした南斗聖拳という、今までに無いスタイルも魅力であった。キックメインのキャラというと、どちらかといえばファンキーな性格のキャラが事が多い気がするのだが、シュウの場合は真逆のクソ真面目さんであり、そのギャップがまた良かったのかもしれない。
 ちなみに南斗聖拳の足技と言うと、シンの南斗獄屠拳が先に登場しているわけだが、あれは交錯時に手刀で切り裂く技だと解説されている。足であの切れ味を出せるのは、やはり南斗聖拳多しといえども南斗白鷺拳だけなのだろう。(外伝ではあったけど)

 彼のモデルになったと思わしきものは幾つかある。まず聖碑を抱えて十字稜を登るシーンは、イエス・キリストが十字架を担いでヴィア・ドロローサを歩き、刑場のあるゴルゴタの丘へと向かう場面のオマージュであると原作者自身が語っている。上り始める前に鞭打たれている点、担いでいるものが自らの死と直結するアイテムである点、そして最期は槍に貫かれている所なども一致している。


 盲目という設定は、イエスに槍を突き刺した聖ロンギヌスからきているのではないかと思われる。彼は白内障を患っており、殆ど視力がなかったのだが、槍を突き刺した際にイエスの血が目に入ったことで奇跡が起こり、視力を取り戻したとされている。立場が逆になるが、槍に貫かれたシュウが死ぬ直前に眼が見えるようになったのは、ここから拝借されているのではないかと考えられる。


 衣装は、映画「マッドマックス/サンダードーム」における主人公マックスのものを参考にしたのではないかと思われる(フジイ殿から情報を頂きました)。マックス自体はふんどしのような股間部分の布くらいしか共通点はないのだが、この映画に出てくる敵兵の鎧が聖帝正規軍の兵士とそっくりであるため、互いの対立関係などを考慮するとその可能性は高いと考えられる。




●戦争に向いていない男

 先ほど、シュウのモデルとして、映画「マッドマックス3」のマックスを挙げたが、他にも彼とシュウには共通する部分がある。それは、烏合の衆を率いて巨大な戦力を相手に立ち向かっているところだ。だがマックスは最終的に敵に一泡吹かせる名采配を見せたのに対し、シュウのレジスタンスは殆どいいところ無く聖帝軍に蹂躙された。もちろんその理由には、敵が南斗聖拳最強の男であったこともあるだろう。だがそれ以上に、シュウという男が不器用だった所為もあると思う。優しく真面目な男であるシュウには、戦に勝つための能力が決定的に欠けていたのだ。

 ケンシロウがシュウのもとへと訪れたとき、彼はレジスタンスのリーダーとして聖帝軍に抵抗を続けていた。しかし、既に両軍の戦力差は絶望的なまでに開いていた。食いきれない程の料理を並べるサウザーに対し、シュウは殆ど何も口にすることもできず、薄暗い地下道に身を隠すという生活を送っていたのだ。個人の力量に差はあれど、シュウもサウザーも同じ南斗六聖拳。ユダの南斗紅鶴拳に23派の配下がいたように、シュウにもほぼ同等の配下がいたはず。彼らの協力があれば、ここまで戦力差が広がることは無かっただろう。一体彼らは何処に行ってしまったのか。

 聖帝軍には「子供を献上すれば軍団入りを認める」という決まりがある。これは相当イージーな入団試験と言えるだろう。近隣の野盗はその触れこみを聞いて、どんどん子供を浚い、どんどん聖帝軍に参加していった筈だ。サウザーが何もせずとも、聖帝軍は分単位で戦力を拡大していったのである。気付いたときには、もはや拳王軍以外には太刀打ちできぬほどの巨大軍閥へと成長していた。もうチンケなレジスタンスなどに勝ち目などない。それが確信に至ったとき、白鷺拳配下の南斗の者たちは、シュウの元を離れたのだろう。そしてシュウもまた、彼らを咎めるようなことはしなかったのだ。シュウとはそういう男だ。
  シュウの人望の高さは、確かにリーダーにとって大切な資質の一つだろう。だがいざ戦争を起こすとなったとき、その甘さは毒となって組織を蝕む。非情さや狡猾さが全くないシュウは、将として軍団を率いる事に対して圧倒的に不向きな人間だったのである。

 だがシュウにも勝利のビジョンはあった。それは勿論ケンシロウの存在だ。彼がサウザーを倒してくれさえすれば、もはや聖帝軍は恐るるに足らず。己とケンシロウの手で兵士達を一掃し、浚われた子供達は全員親の元へと戻ってハッピーエンド。そんな展開を描いていたのだろう。非常にシンプルだが、期待値は高い作戦と言える。
 しかし、それならそれでケンシロウを早く呼びに行けと言いたい。実際ケンが来たのは、もう聖帝十字陵が八割方完成した頃だった。遅い。遅すぎる。何故シュウは自分から動こうとしなかったのか。己の仁星が間違っていなければケンシロウは必ず駆けつけてくれると信じていたのだろうか。いや、おそらくは単純にケンシロウの行方をつかめなかったのだろう。レジスタンスの構成員は、殆どが子供を浚われた父親達。いわば素人の集団である。そんな組織の諜報力などたかが知れている。それに聖帝軍相手に手一杯の中で、生きているのか死んでいるのかも解らぬ人間の捜索に人員を割くこともできなかったのだろう。それも全てはレジスタンスの脆弱さゆえ。シュウの甘さが全てを後手に回らせ、気付けば頼みの綱であるケンシロウを召喚することすらままならなくなっていたのである。

 だが、シュウ自身もそんなことは理解していたはずだ。己に戦を勝ち抜く才覚など無いこと。非情に徹することの出来るサウザーに勝ち目などないということを。しかし、それでもシュウは己の道を変えることは出来なかった。何故なら、シュウは子供達のために戦っていたから。シュウが非情さを持てば、少しは戦況を好転させることはできただろう。だがその姿を子供達が見ている。これからの未来を創っていく幼い者達の目が、シュウの一挙一動を見ているのだ。そんな彼らに、己が手段を選ばず戦う様を見せたくは無かった。勝つことが正しいのではない。人を慈しむ仁の心を持って生きるのが人間であり、そんな者達こそが光ある未来を築いてゆけることを、シュウは己の生き様をもって伝えたかったのである。ケンシロウの手によって悪が滅ぼされた後、世の行く末を決めるのは目の前に居る子供達。シュウは、そんな彼らが創っていく十年後の未来を見ていた。そしはシュウは、かつて十人組手に挑んだケンシロウにも、同じように十年後の未来を見ていた。光を失う前も、後も、シュウの眼はただ未来だけを見ていたのである。



●南斗六聖拳最弱?

 南斗六聖拳の中で、いや全ての拳士達の中でもトップクラスの良識人であるシュウ。だからこそ読者は彼を支持し、サウザーとの闘いでは全力で彼を応援した。しかし結果は無惨なものとなり、同時に不完全燃焼な結末を迎えた。もしシュウがサウザーと真正面から闘っていれば、勝てないまでもどれくらい粘ることが出来たのか。盲目の闘将と呼ばれし男が命を賭けて戦った時、どれほどの強さを発揮していたのか、我々はその答えを見たかったのである。

 だが彼は、あまりのも大きなハンディキャップ背負っている。言うまでも無く、その光を失った両目だ。だが彼には「心の目」という武器がある。カーネル戦においてケンシロウは、あえて目を塞ぐことでカーネルの気配を読み、反撃に転じた。これも心の目の力だろう。この結果だけを見れば、目に頼るよりも心の目で戦うほうが優れているように思える。だがそれは間違いだ。本当に心の目で闘う方が強いなら、ケンシロウも常にそれで戦っているはず。常時ではなくとも、ここぞという大一番くらいは心眼を使っているはずだ。それをしていないということは、決して「目が見えないほうが有利」などではないということ。あの時は、気配を消す達人であるカーネルに対して心の目のほうが有効だったというだけなのだ。

 実際、シュウはケンシロウとの闘いにおいて、盲目ならではの弱点を突かれて敗北している。水影心によるユダの伝衝裂波を受けたシュウは、地の裂ける音に恐怖を誘われ、完全にケンシロウの位置を見失った。技を放つケンシロウの気配は察知できても、轟音と共に迫り来る真空波に対しては心眼は役に立たなかったのだ。シュウにとって心眼を封じられることは、常人が視界を奪われるに等しい。それつまり、ほぼ無力と化すも同じ。卓越した感覚は大きな武器ではあるが、それへの依存度が高ければ高いほど、それを失ったときの弱体化は大くなる。全ての感覚を鍛え、あらゆる状況に対応できる者こそが強者であり、それができない"盲目の闘将"は大きな弱点を抱えた不完全な闘士なのだ。


 では彼の伝承する南斗白鷺拳はどうか。南斗聖拳の中でもかなりクセの強い「足技」を主体とした拳であり、初見のケンシロウは大層驚いていた。しかし虚を突いた割には殆ど手傷は与えられず、結局ほぼ完敗という形で敗れ去っている。確かに「南斗聖拳の脚技」は珍しいかもしれない。しかし脚技は脚技。通常の戦闘において「蹴り」という選択肢は当然警戒すべきパターンの一つであり、想定外の攻撃というわけでもなかったのだろう。

 蹴りには他にもメリットがある。パンチよりもリーチが長く、威力が高い点だ。だが南斗聖拳という特殊な拳においては、その図式が当てはまらない可能性もある。南斗聖拳は一撃必殺の拳。まともに喰らえばケンシロウだって致命傷を負うほどの威力だ。つまり、手技での攻撃でも十分な殺傷能力があるのだ。パンチとキックの威力がそう変わらないとなれば、出が遅い。隙が大きいというデメリットのあるキックを使う理由は殆ど無くなってしまう。

 それどころか、下手をすれば蹴りの方が殺傷力が低いという可能性も考えられる。南斗聖拳が誇る「切断力」は、通常の打撃とは性質が異なる。パワーやスピードがあるからといって切断力が増すとは限らない。「打撃力」では蹴りの方が上だが、「切断力」では手刀に劣るという可能性もあるのだ。
 切断といって思い出されるのは、日本刀を用いた「居合い」だ。居合で最も大事なことは、切る方向に対して刃筋を真っ直ぐに立てる事だと言われる。これを疎かにすると、対象を切りきる前に刃は止まり、逆に刀の方も破損してしまうのだ。パワーやスピードよりも、こういった繊細な技術の方が求められるのである。
 幼少期にサウザーが行っていた石灯籠を切断するという修行にも、このような描写がなされていた。失敗した時は石灯籠が殆ど無傷だったのに対し、成功時には豆腐のように綺麗に切断されていたのだ。同じ攻撃なのにここまで結果に差が出るということは、やはりそこに何か「コツ」のようなものがあり、それを微調整できたからこそ二度目は成功を収めることができたのだろう。
 南斗聖拳を成功させるための「コツ」は何なのか。居合いと同じように手刀の角度が大事なのか。それとも手先に込める気の調節か。それは解らない。だが何であれ、一番大事なのは「正確さ」であることに違いは無い。そういった器用さに関しては、足よりも手のほうが遥かに優れている。つまり足よりも手の方が遥かに「南斗聖拳の切断力」を実現させやすいのだ。


 とまあここまではネガティブな意見ばかりを言ってきたが、別に私は南斗白鷺拳が弱いと考えているわけではない。私が言いたいのは、白鷺拳が他の南斗聖拳よりも遥かに難易度が高いということだ。だがもしその高い難度をクリアし、白鷺拳を完全にマスターできたなら、その拳は他の南斗聖拳を遥かに凌駕するだろう。そしてシュウならば、きっとそれを成しえているはず。足で魔界村をノーミスクリアするほどの厳しい修行の末、「手刀と同等以上の切断力を持つ蹴り」を身につけているに違いない。
 「出が遅い」「隙が大きい」という脚技ならではのデメリットも、烈脚空舞のスピードを見る限りでは問題ないだろう。それに南斗白鷺拳は、別に脚技のみで闘う拳法ではない。「脚でも切れる」というのは、あくまで戦法の一つであり、彼の南斗聖拳の戦闘スタイルの幅を広げるための存在なのだ。脚技に依存するのではなく、然るべき時に使用するという使い方をすれば、そこにマイナス要素など一切存在しないのである。

 更に白鷺拳には、他にはない大きな武器がある。それは攻撃範囲の広さだ。南斗烈脚斬陣で周囲の聖帝兵を切り裂いたあの場面、よく見るとシュウと兵士の間にはかなりの距離がある。およそ3m〜5mといったところだろうか。つまりシュウは、己を中心とした半径5mの円内にいる敵を一網打尽が出来るほどの攻撃範囲を持っているのである。単に披露していないだけで、他の南斗聖拳拳士にも出来る可能性はあるが、やはりこれは脚という白鷺拳ならではの特長あればこそ成しえる技だと考えるべきだろう。


 以上の結果から判断するならば、拳法だけなら南斗六聖拳の中でも上位、南斗鳳凰拳に継ぐ二番手に位置してもおかしくない強さだと思われる。だがやはり盲目というハンデを加味した場合、シュウ個人としての順位は大きく下がってしまうだろう。それでも総合的にはユダよりは勝っていそうだが、伝衝裂波への相性の悪さ、そして策略に最もハマりそうな性格を考えると、おそらく勝ちの目は薄い。残念ながら、ユリアを除く南斗六聖拳の中では最弱と判断されるのも致し方ないと思われる。

 だがもし彼が盲目になっていなければ、その強さはサウザーに匹敵していた可能性まである。アニメでケンが十人組手に挑んでいるとき、サウザーは「この道場で奴(シュウ)と互角に戦えるのは俺だけだと口にしている。これは凄いことだ。自らを南斗の帝王と名乗る男が、シュウの事を自分と同格だと認めているのである。いや、むしろ本当に互角ならこんな事は言わないだろう。あの時点ではシュウのほうが勝っていたが、南斗極星としてのプライドが互角という表現に留めたのかもしれない。

 しかし彼が光を失っていない未来というのは、即ちシュウの仁星が目覚めていない未来でもある。己の宿命を見つけられず、燻り続ける状態で、真の強さなど得られようはずがない。例え拳力が落ちようとも、両目の傷という勲章を背負って闘う"盲目の闘将"こそが、シュウという男の完成系なのである。



●南斗十人組手事変の真相とは

 かつて南斗十人組手に挑んだケンシロウは、順調に9人目までを撃破する。こんな少年がまさか・・・と会場がざわめく中、最後の相手である十人目として名乗りをあげたのは、シュウであった。既に拳士として成熟していたシュウに少年が敵うはずもなく、勝負は一方的な結果に。他流の者が十人組手に敗れた時は、その場で処刑されるのが掟。敗れたケンシロウに向け、一斉に武器が突き立てられようとしたその時、彼を助けたのもまたシュウであった。この少年は殺させぬ。そう言ってシュウは、掟を破ってケンシロウを救う事の代償として、己の両目を切り裂き、その光を永久に閉ざしたのであった。

 この場面、多くの者が思ったことだろう。「何故シュウは名乗り出たのか」。シュウが名乗り出ず、別の十人目とケンシロウが戦っていれば、普通にケンは十人組手をクリアし、シュウが両目を潰すような事態にもならなかったのではないか。そう思えて仕方ないのだ。

 十人組手の最中、シュウはケンに向けて気を飛ばし、ケンはそれを感じて振り返った。あれはケンシロウの力を見極めるための試験だったのだろう。そしてケンはそれに合格した。その瞬間、長年燻っていたシュウの仁星が目覚めた。この少年を命を賭けて守らねばならないと確信したのだ。しかし、シュウは何故あのタイミング・・・ケンが9人目と戦っている最中にそれを行ったのか。おそらくそれは、タイムリミットが迫っていたから。ケンシロウがもし10人目と戦っていれば、命は無かったであろう事を、シュウは見抜いていたのである。

 何故ケンシロウは死んでいたのか。可能性はいくつか考えられる。まず、ケンシロウが十人組手をクリアしたとしても、サウザーが生きて帰さないというパターンだ。後にサウザー自身が口にしているように、南斗は永きに渡って北斗の後塵を拝してきた。にも関わらず、今度はこんな少年にまで南斗十人組手を攻略されたとあっては、南斗の先人達に合わす顔が無い。南斗の頂点に位置する者として、このままケンシロウを帰し、この場で起こった事実が広まることは絶対に阻止せねばならない。そうサウザーが考えていたからこそ、シュウはそれを察知し、あのような行動に出たのではないかという事だ。
 だがこの説には大きな問題がある。ラオウの存在だ。十人組手中のケンシロウには一切関知しなかったラオウ様だが、組手攻略後に命を狙うという武道家精神に反した行為があった場合は、ラオウ様がそれを阻止せんとする可能性は大いにある。たとえサウザーがラオウ様を倒せたとしても、北斗の伝承者候補を2人も殺したとなれば事態はあまりにも大きくなる。狡猾なサウザーがそこまでのリスクを負うとは考えにくい。

 実は10人目にとんでもない隠し玉が控えていたという可能性も考えられる。サウザーやシュウほどではないにしろ、幼いケンシロウでは絶対に勝てないレベルの拳士が裏に控えており、最初からケンシロウがクリアできないよう準備がなされていたのではないか。この線は十分ありえそうだが、現状その隠し玉的存在に全く心当たりが無い以上、この説を押すのは少々無理がある。

 ではその10人目の「隠し玉」が、サウザー本人だったとすればどうか。「真救世主伝説 ラオウ伝 殉愛の章(小説版)」にも、「あの時サウザーは10人目に名乗りあげ、ケンシロウを一撃で殺すつもりだった。だからこそシュウが先んじて名乗り出た」という解釈がなされている。これが一番可能性が高いのではないだろうか。

 その根拠となる描写もある。下図を見て欲しい。


 組手が行われている間、サウザーは図の左側のように、椅子の背もたれに身体を預け、ふんぞり返っていた。しかし9人目が敗れた直後(右図)、サウザーの体が若干前のめりになっているのだこれは、今まさにサウザーが席を立ち、10人目に名乗り上げようとしていたが故の前傾姿勢なのではないだろうか。その気配をいち早く察したからこそ、シュウはあの絶妙のタイミングで席を立ち、サウザーの企みを阻止することができたと考えられるのだ。
 殉愛の章(映画版)では、あの時トキやラオウもケンシロウの処刑を止めるつもりだったと言っている。だがもし「組手中に」サウザーがケンを殺してしまったなら、その意思も無駄に終わっていた。つまりあの時ケンシロウを救うには、シュウのとった方法以外に無かったのである。


 シュウに敗北した後、ケンシロウは「10人目の相手があなたで良かった」と言っている。シュウが相手でなければ十人組手をクリア出来ていたかもしれないのに、何が良いというのか。そう思っていたが、もしサウザーが10人目として名乗り出る事をケンシロウが見抜いていたなら、その言葉の意味も解る。サウザーの拳で慈悲もなく惨殺されるより、拳士として尊敬すべきシュウと戦って死を迎えたほうが遥かに幸せだとケンシロウは思ったのかもしれない。



●最期に起こった奇跡の理由とは

 ケンシロウの成長した姿を一目見たかった。死ぬ直前、そう願ったシュウの身に奇跡が起こった。サウザーの投げた槍がその身体を貫いた瞬間、永らく光を失っていたシュウの目に突如として視力が戻ったのだ。立派な拳士へと成長したケンシロウの姿をハッキリと視界に捉えたシュウは、その喜びに涙しながら、聖碑の下敷きとなって絶命したのだった。

 この頁の上部でも触れているが、この現象は、聖書の中に記されているイエス・キリストが磔刑に処された際に起こった奇跡と似ている。磔のキリストに槍を突き立てたローマ帝国の百卒長・聖ロンギヌスは、もともと白内障を患っており、目が不自由であった。しかしキリストの返り血を目に浴びたことで、ロンギヌスは視力を取り戻し、それを期に改心。後に洗礼を受けることになったという。色々と立場がテレコになってはいるが、「槍」「盲目」「視力回復」といった共通ワードがある以上、この逸話がモデルとなっていることは間違いないだろう。

 が、そんな事はどうでもいい。問題は、キリストの血を浴びてすらいないシュウの目に、どうして光が戻ったのかという事だ。空気を呼んで「奇跡」の二文字で片付けてしまってもいいのだが、それではつまらない。

 あの時シュウは槍に貫かれるという大きなショックを受けてはいるが、その部位は胴。視神経からはあまりにも遠いため、それが直接の原因だとは考え難い。しかし他に原因らしい原因も見当たらない。ならば可能性は一つ。シュウはあの瞬間に視力が回復したのではない。彼の目は割と前から光を取り戻していたのだ。シュウ自身がそれに気付いていなかっただけなのである。

 そんなマヌケな話があるかいと思われるかもしれないが、勿論理由はある。シュウは只の盲人ではない。心の目で世界を見ている男なのだ。武術にも長けていないし目も見えている私に心眼のなんたるかが解る筈もないのだが、少なくとも「視力以外の4つの感覚を常人より遥かに研ぎ澄ませる」事が心眼を成すための最低条件であろう。この程度のことは通常の盲人でもやっている事だ。しかし南斗白鷺拳伝承者として、盲目の状態でも拳を捨てるわけにはいかなかったシュウには、よりその「4感覚の練磨」を行う必要があった。そのためにシュウは、「視る」事に対する意識を完全にシャットウアウトしたのではないだろうか。目が見えないと解ってはいても、不意に反応した時、脳は一瞬「視る」ことを意識する。その不要な意識が、他の感覚に僅かな遅れを生じさせる。戦いにおいては、その刹那の逡巡が敗北を呼びかねない。故にシュウは、「視る」という行為を完全に意識の中から捨て去ることで、他の感覚を極限まで研ぎ澄まし、遂には完全なる「心の目」を体得するに至ったのではないか。

 十人組手から永い年月が経ち、シュウの目にも少しずつ視力が戻り始めていた。しかし自らの中から「視る」という行為を遮断していたシュウには、それに気付くことが出来なかった。しかしあの時、槍に胴を貫かれるという致命の一撃がシュウの身体に大きなショックを与え、閉ざされていた「視る」という感覚への扉が開かれた。そこでシュウは、ようやく己の目の現状に気付くことができた・・・等というちょっぴりドジな理由があったのかもしれない。