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陳立夫
ちんりっぷ



登場:第105、108話
肩書:国民党組織部長

 国民党組織部長。羅虎城を殺した閻王への処遇を話し合う会合に参加。拳法には拳法に応ずるべきという蒋介石の判断を受け、北平漂局流飛燕を推薦した。
 その後、漂頭の李集雲に直接会い、満州との阿片貿易に目を瞑る代わりに、なんとしても流飛燕を動かすよう命じた。



陳立夫(1900年〜2001年)

中華民国の政治家。兄の陳果夫とともに中国国民党内派閥の1つである「CC系」の指導者として知られる。名は祖燕だが、字の立夫で知られる。

清浙江省に生まれる。1923年にアメリカに留学し、孫文の著作『実業計画』を読んだことで、サンフランシスコで中国国民党に加入。1925年に帰国し、採鉱技術者として起用されたが、まもなく蒋介石に招聘されて広州に赴き、黄埔軍官学校校長弁公室機要秘書に就任。蒋が北伐軍総司令となると、総司令部機要科科長と秘書処代理処長を兼任した。

1927年、一時下野に追い込まれた蒋介石蒋は、地縁的な支持団体である浙江革命同志会を中央倶楽部(Central Club)に改組。陳は兄の果夫の下で、党務調査科主任に任ぜられ、これを主に中国共産党に対する調査・監視の特務機関に改組。1935年には軍事委員会調査統計局局長に任ぜられ、特務活動を掌握。様々な新聞・雑誌を創刊して宣伝に努めたほか、易経の研究から「唯生論」を提唱し、書籍を出版するなどした。一方で日本の侵略に対抗するために、「安内攘外」よりも国共合作を優先すべきとの立場をとり。蒋介石の密命により、共産党との接触を開始。さらにソ連も訪問し、後の第2次国共合作の成立に大きく貢献した。

日中戦争勃発後、軍事委員会第6部部長に任ぜられ、抗日教育を推進。1944年には「国民学校法」を公布するなど、教育制度の整備も行った。しかし日本敗北間際から、CC系は陳誠率いる三民主義青年団などとの党内抗争が激化していき、陳果夫・立夫兄弟はかつてほどの権勢を喪失。その後も様々な要職に就いたが、国共内戦の中で精彩を欠いた。

国民政府が台湾に逃れた後、居場所を失いアメリカに亡命。その後、コロンビア大学研究所で研究員をつとめ、中国近代史の研究機関を同大学に設立。1969年に帰国して総統府資政などに任ぜられたが、基本的に政治に関わろうとせず、その一方で共産党との和平統一、第3次国共合作が必要であると主張し、また中台民間交流も熱心に行った。

2001年2月8日、台中で病没。享年102歳。