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東北レポ 中編 2012/5/6(日)
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旅日記の続き。





東北・北陸隠遁記(2)




4月4日


 前日の睡眠不足を取り戻す8時間睡眠は、我に万全の体調を私に与えたもうた。
 だが体調が良いからといって旅路が全て良いものとは限らない。宿の中から見た、二重窓に隔てられた外の世界は、まさかの猛吹雪であった。


 予定通り、この日はまず、もうひとつの賢治関連施設である「宮沢賢治童話村」を訪問。エリア内にある建物を廻る事で、楽しみながら色々な事が学べる"楽習施設"なのだそうだ。
 観覧物は全て屋内にあるとはいえ、建物が複数あるため、屋外を移動せねばこの施設を満喫する事はできない。要するに、猛吹雪の中を歩かねばならないという事だ。こんな天候の中、開場時間と共に施設内へととびこんできた我々を、童話村スタッフの方々はどう思っただろうか。凄まじいケンジファンだと思っただろうか。残念それは間違いだ。

 主要施設のひとつ「賢治の学校」は、宮沢賢治の物語の世界を再現したというファンタジーな回廊が見所。作品をほぼ知らぬ私にはただの不思議空間に過ぎなかったが、それはそれで愉しめた。皆様は是非お子さんと一緒にお越し下さい。
 もう一つは複数のログハウスで構成された「賢治の教室」。それぞれ異なったジャンルの展示物が公開されており、マジックミラーや暗転などを利用した面白い造りになっている。鳥のフロアでいきなり鳴き声を鳴らされ、ビックリしてケツがつった。


 花巻には他にもいくつか賢治関連の施設はあったものの、もう流石にケンジはおなかいっぱいだということで、次の地へと出発。
 ネクストポイントは、昨年世界遺産に登録された平泉。芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んだ地だ。今回は時間的な問題で、一番メジャーな中尊寺だけを訪れる事にした。


 んでまあ、とりあえず行ってみたのだが・・・・・・結論から言うと、「世界遺産」というネームバリューでハードルが上がっていた事も差し引いても、まるで面白くなかった。まさか金色堂がガラスの向こうに安置された展示物だなんて思いもしなかった。徐に流れる解説音声などのせいで、趣も何もありゃしない。おまけに館内撮影禁止というケチくさい事をやっていやがったので、館外から館内を撮影するというトンチをきかせてみた。


 世界遺産だというのにこれだけつまらないのは、私に徳が足りないからなのか?とも考えてみたのだが、帰ってきてWikiを見たらこんな記述があった。

>鉄筋コンクリート造りの覆堂、及びガラスケースは世界遺産としては見た目が悪く
>平泉の文化遺産の目玉建造物としては似つかわしくない。

 むう、やはり同じ思いの人は多いようだ。平泉でインパクトや景観などを愉しみたいという方は、この金色堂ではなく、他の名所を訪れたほうが良いかもしれない。




 平泉を後にし、適当に入ったうどん屋で昼食。食べ逃していた「比内地鶏」が入っているとの触れ込みに惹かれての選択だったのだが、コッソリとゴボウが紛れ込んでいたため、テンションは一気に急落した。俺はこいつが大嫌いだ。他にも苦手な食べ物は多々あるが、こいつほど視認不可な状態で料理に紛れ込んでくる奴は他にいない。木の葉が舞えば木の葉に、雪が降ったなら白狐に化けて、俺の食の愉しみを奪っていく茶色の刺客。それがゴボウという食い物・・・いや、食い物とも認めない。ただの根っこだろこんなもん。多分私はこの世で山崎邦正の次くらいにゴボウが嫌いな人間なのだろうと思う。



 そんなこんなしながら、午後からはいよいよこの旅の真の目的でもある被災地へ。一気に太平洋側へと出て、徐々に南下しながら未曾有の災害が残した傷跡を目にしていくという予定になっている。


 ・・・・が、そんな我々の前に再びヤツが立ちはだかった。
 暴風雪へとモードチェンジした爆弾低気圧野郎である。

 平泉滞在時には既にその勢いを弱めていたため、もう完全に過ぎ去ったものだと思っていたのだが、奴の本気はこの岩手県内の山中で訪れた。その威力は、前の車の轍を一分とかからず覆い隠し、風が強い時には1メートル先の視界すら奪ってしまう程。トンネル内に入ったのにその先300メートルほどまで雪が積もっているという異常な事態からも、そのありえない風速具合がわかってもらえるだろう。
 うちの地元も今年は観測史上最大の積雪を記録したが、東北さんと比べたら所詮アマチュアですよ。だからこんなヒヨッコ共に、プロの東北さんが本気出さないでくださいよ。大人げないっすよ。



  道筋を示す道路脇のポールに全ての信頼を託し、大幅な時間ロスもやむなしの超安全運転を心がけた結果、なんとか無事に危機を脱出。わりとマジで命の危険を感じる運転で、かなり疲弊させられたものの、ともかく目的の太平洋沿岸へと辿りついた。


 最初に訪れた沿岸都市は、岩手県大船渡市
 市街に入っても特に被災した様子が無かったので、一瞬アレっと思ったのだが、川沿いや沿岸部に近付くと、その様子は一変した。とある地点からを境に、不自然に広がる平野・・・。整地されてはいるものの、一年前までそこに建物がひしめいていたであろうことは容易に想像できた。
 あくまで私が見た範囲での事だが、この町で全壊、半壊した家屋などは、既にかなり片付けられているように見えた。忌まわしき災害の痕が、人々の努力のおかげで徐々に消えようとしている様子が伺える。旅の中で色々な被災地をまわったが、この町が一番前に進んでいるように感じた。




 海岸線をゆっくりと進んでいるうち、陸前高田市に入った。あまりにも海際を意識して走りすぎた所為で市街地を外れてしまったのか、正直あまり被災の様子を見ることは出来なかったのだが、ここで初めて瓦礫の山に遭遇した。

 おそらく市内で出た瓦礫なのだろう。金属、木材、タイヤなどに分別された瓦礫が、小高い山となって広い敷地内にいくつも積み上げられている。確かにこれを何とかしないかぎりは、何も始まりやしないだろう。災害の記憶として何かを残すのはいいが、こんなもんはさっさと処分してしまうに限る。
 ただ、これも勿論どえらい量なのだが、この後に訪れる街では、ショベルカーのアームを伸ばした状態の2倍ほどの高さがある瓦礫の山などもあり、自分が処理活動に関わっているわけでもないのに酷くゲンナリした。


 陸前高田の「復興のシンボル」とも言われている、奇跡の一本松も、川の対岸からではあるが、一応見る事が出来た。蘇生は不可能なため、クローンを作って再生する計画がもちあがっていると聞いている。




 陸前高田を抜けて岩手県とバイバイし、宮城県気仙沼市へと突入。
 本日訪れる都市の中では最も人口の多い所だ。

 市街地へ向かう途中、今日一のインパクトが飛び込んできた。津波で打ち上げられた船、第十八共徳丸。その残骸だ。

  これだけの巨大艦が、陸の上で惨めにその船体を晒す様は、まさに北斗の拳の世界そのもの。海岸線から500m近く離れている場所にまで、これだけのものが流されているという事実からも、驚異的な津波の破壊力が見て取れる。
 他にも打ち上げられた船は多数あったらしいが、全て解体され、現在はこの船だけが残されている状態であるらしい。もちろんそれは意図的なものであり、今のところはこれが復興のシンボルや、慰霊碑に代わりになっているのだという。だが諸々の事情を考えると、いずれは解体されてしまうのだろう。しかしこれが観光客の呼び水になるであろうこともまた事実。今後もこの船の処遇を巡っては二転三転あるだろう。個人的にはスクリュー部分だけを残すような措置がとるのが妥当ではないかと思う。


 気仙沼市街には、津波で廃ビルになった建物がそのままの形で多く残されていた。いっそ津波で全て流されていれば整地も出来たのだろうが、他所と比べると比較的都会であるこの気仙沼にはビルが多く、なまじ建物が残ってしまって手がつけられない形になってしまったのだと思われる。
 町の中心部には、仮設商店街とも言うべき「復興屋台村 気仙沼横丁」があったので、そこで買い物をし、心ばかりの支援。トイレには、10円を入れる事で遊べる、小便を的に当てて放尿CC量を競うゲームが設置してあった。そんなんなくても10円くらい入れるよ・・・




 南三陸町へと入り、仮設ストアのおっちゃんの話を聞いているうちに日暮れを迎えたため、本日はここで宿を取ることに。とは言っても、宿泊場所は決まっていない。何もかも予定を決めてしまうよりは、ある程度ノープランの部分があった方が旅らしくて良いのではないかと、あえてこの日は宿の予約をしていなかったのだ。
 とりあえず市街に入ってから考えようと車を走らせていたのだが、暗闇を進むうち、徐々に事の異常さに気付き始めた。この町には町が無い。今まで廻った町は、被災しながらも町の一部分を残していたが、この町にはそれがない。おそらく他と比べて小さめの町であるこの南三陸町は、被災した人数、家屋などは他の都市と一緒であっても、町全体の「全壊度」という点では圧倒的に上回っているのではないか。そんな印象を受けた。「訪れてみればなにかあるだろう」なーんて軽く考えていた自分が恥ずかしい。

 だが結局、この日の運勢は我々に味方した。友人が探し当てたのは、津波での被災を受けて高台に移転したという民宿「下道荘」。1ヵ月半前にリニューアルオープンしたばかりで、新築同然の綺麗な宿であるにも関わらず、宿泊代は朝食込みで4000円を切るという格安料金だ。総合的に言うなら、私が今までの人生で宿泊したホテル、旅館、民宿の中でも一番良かったかもしれない。
 できれば被災した当時の話なども聞ければ―――などと思っていたのだが、あの街の様子を見れば、ここの従業員の方々も多くの知人等を亡くされているであろうことは容易に察しがつくわけで、もはやジャーナリストでもない私には話を切り出す事など出来はしなかった。
 まあとにかく、被災地での宿泊をお考えの方には、この「下道荘」を私は自信を持ってお勧めしたい。マジで。






4月5日

  東北三日目。この日も被災地廻り。

 前日は暗闇でよくわからなかった南三陸町の様子を改めて見ようと、再び街中へ。かつて家屋が立ち並んでいた場所に平野が広がっている・・・今までの道程でも目にしてきた光景だが、他の町と比べると、まだ災害の痕を消しきれていない箇所が数多く目に付いた。一年前まで家が建っていた事を示すブロックの囲いの中に、未だ片付けられずに残っている生活用品の数々。破壊されて斜めになったままの堤防。粉々に打ち砕かれた無数のボートの残骸など・・・。これらも徐々に片付けられ、やがては整地されていくのだろうが、少なくとも私が訪れた時点で言えば、被災した直後の状況に最も近い光景を残していたのが、この南三陸町であった。

 町外れには、もはや車と判別できぬほどグシャグシャになった自家用車が整然と並べられていた。未だかつてこんな状態になった車は見た事が無い。なぜ処分されずに残っているのか解らなかったのだが、もしかすると所有者が行方不明で、勝手に処分する事が出来ずにいるのかもしれない。




 次に訪れたのは、女川町。女川原発は安全に停止したとはいえ、襲った津波の高さは今回の震災で最大だったと聞く。
 故にかなりの光景を想定していたのだが「斎場 こちら→」という道看板を目にし、祈りを捧げておこうと思ってそれに従って進んでいたところ、いつの間にか街を出てしまい、目にする事が出来なかった。何故か斎場にもたどり着けなかった。残念だ。今からでも戻りたい気持ちでいっぱいだ

 そんなわけで殆どノンストップで走り抜けてしまったのだが、道中にあったビルが横倒しになっているという異様な光景だけで、この町を襲った津波の破壊力は十分見て取ることができた。地震だけでも、台風が上陸しても、戦争が起っても、ゴジラが上陸したとしても、こんな不可思議な光景は生まれない。まさに巨大津波だからこそ作り上げられた光景だといえる。建物の底をじっくり見る機会など、もう生涯無いかもしれない。

 因みに、この街へと差し掛かる直前、土手から脱輪して45度に傾いたまま動けなくなっている車と遭遇した。事故原因まで聞く気にはならなかったが、隣にチャイルドシートのお子さんを乗せての運転なのだから、もう少し気をつけて欲しい。車の前方にガレキの山があったことを思うと、それに目を奪われてのハンドルミスではないかと想像されるが、そんなアホな二次災害だけは絶対に止めて欲しい。




 次の石巻市に入ると、一階だけがやられて二階が無事という民家がよく目に付くようになってきた。ニュースなどで良く見た、巨大鯨缶の前も偶然通りかかったが、これもドライバーの目を奪って事故が起こしかねないなと思った。残すのはいいけど、車道沿いは止めた方が良くないか?



 石巻には、かの石ノ森章太郎御大のマンガミュージアム「石ノ森萬画館」があり、観光誌で見て是非行きたいと思っていたのだが、残念ながら現在は震災の影響で休館となっていた。
 しかし入口前には、訪問者達が復興メッセージを残していけるボードが設置されていた。せがた三四郎 藤岡弘氏の特大メッセージをはじめとした、多くの石ノ森ファンのメッセージで、隙間もない程に埋め尽くされたボード。よく見ると建物内にも既に埋め尽くされたボードが多く立てかけられていた。やはりヒーローモノのファンというのは熱い。折角なので私も気の利いた一筆を入れたかったのだが、石ノ森作品のキャラは全く描けないので、端の方に小さく拳王様を描いておいた。



 道中、日本三景のひとつである松島を通りかかったので、折角なので見ておくことに。湾の中に多くの小島(もとは山)が点在し、見る地点によって景観が全然違うというのが、松島の魅力であるらしい。ここにも津波は押し寄せたが、まさにその松島の島々が防波堤の役割となってくれたため、それほど大きな被害は受けなかったと聞く。それでも島のいくつかが削れてしまったり、海沿いの店も一階部分がかなり流されたりしたらしいのだが、少なくとも我々が訪れた時点ではその被害の痕は全く確認できなかった。
 湾岸を小一時間ほど歩いたが、ここが日本三景たる所以はイマイチ理解できなかったので、名産である玉コンニャクと笹かまぼこを食べて出発。多分、高いところから眺めるか、観覧船に乗るなどしないとその良さは見えてこないのだろう。


 松島を出立後、内陸の方へと入り、ここで被災地巡りは終了となった。
 ここに書いた分以外にも、各地の被災地を実際にこの目で見て、思い、感じた事は多々ある。が、このサイトの方向性に相応しい内容ではないので、自重しておく。
 ひとつだけ確実に言える事は、行って損は無いということ。一年経った今でも、当時の凄まじさを十二分に実感できたし、おそらくあと一、二年経っても、今回我々が目にしたものと同レベルの傷痕は見る事が出来るだろう。あの瓦礫山や街の跡地などが今すぐどうこう出来るとも思えないし、気仙沼の船や石巻の鯨缶なども、今後「見物客」を呼び込むために暫くは残されているはず。「見物客として行くのは気が引ける」と躊躇されておられる人も多いだろうが、現地の人の話では、瓦礫の運搬が一段落ついた今では、ボランティアよりむしろ現地に金を落としてくれる見物客の方がありがたい(世辞もあるだろうが)とのことなので、気兼ねなく訪れてみることをお勧めしたい。




 午後二時、やってきたのは今回の旅の中で最大の街、杜の都仙台

 仙台と言えば、勿論あの人。好きな戦国武将ランキング(女性の部)では必ずベスト5に入り、某ゲームでは六刀流を使うイケメン武将であり、横山漫画ではイチモツの尿道の向きで青大将を追い払った逸話を持つ、奥州筆頭 伊達藤次郎政宗である。花慶ではボディへの攻撃に定評がある人物として描かれていますね。

でも政宗が仙台に来たのは関ヶ原後だから、この場所自体は花慶とはあまり関係なかったりする。


 まず向かったのは、政宗とは全く関係の無い仙台大観音。仙台市街の外れにある、高さ100mの巨大観音像だ。かつて淡路島でもほぼ同じ高さの観音像を目にしており、その時のインパクトが強烈だったので、ここのも見ておこうと思ったのである。あと、私は高いタワーや巨大な工場などの傍に行くとそのデカさに足がすくんで動けなくなってしまうという「巨大建造物恐怖症(造語)」という病気持ちなので、その恐怖の克服という目的も兼ねているのだ。
 目的のブツは、現地に到着する遥か前から私達の視界に飛び込んできた。4キロも離れた位置から放たれる圧倒的存在感。もはや魔神の域だ。
 足下にまで赴くと、女児がそのデカさに恐怖し泣いていた。これが素直な反応だと思う。私も負けじと足すくみ恐怖に身を委ね、存分にドM心を満たし、一礼してその場を後にしたのであった。


 さてここからは政宗関係の施設でも廻ろうかと思っていたのだが、そろそろ旅の疲れが溜まっていたからなのか、よく考えずに行動し、ミスを犯してしまう。
 まず私が選んだのは、仙台市博物館であった。あのダース・ベイダーのモデルにもなった、政宗の鎧が展示されている所だ。
 目的の鎧兜や、有名な北斗七星の図柄入りの軍配などを目にし、それなりに満足していた私であったが、ここでふと我に返った。俺はここに来たかったのか・・・?鎧とか、そんなに見たかったか・・・?何よりも優先すべきは、政宗公の墓前で手を合わせることではなかったのか・・・?
 だが時既に遅し。政宗の墓があるという瑞鳳殿は、午後四時半で拝観終了。移動時間を考えると、もう間に合わない時刻となっていた。一生の不覚である。こんな拳王決死隊隊長ブルグの兜パクリみたいなのを見学している場合ではなかった。


 仕方が無いので、もうひとつの政宗関連観光スポットである青葉城跡へ。TV番組などで仙台を紹介する時のファーストカットで約70%の確率で使われるという、あの伊達政宗公立像がある場所だ。博物館にも政宗の胸像があったが、やはり騎馬像とは迫力が違った。
 しかし、ここは日本有数のガッカリ観光地としても有名な場所であり、その噂通り、他に特に目を見張るようなものはなかった。護国神社に軽く参拝し、土産を買って、ずんだ餅を食べ、そそくさと退散。やはりどう考えても優先順位を間違えた感が否めない。


 晩飯は仙台市内で牛タン。これで、牛タン、ずんだ餅、笹かまぼこ、玉コンニャクの四大仙台名物(勝手に選定)を制覇する事ができた。政宗巡りの方は微妙な結果に終わったが、食の方は大満足だ。
 折角なので、旅中で最もエエトコな店で食事。味のほうは勿論だが、それ以上に、身体に活力が漲ってくるのが解る。そういえばこの旅行中、ちゃんと肉を食ったことが無かった。今日一日がやけにしんどかったのは、その所為もあるのかもしれない。やはり人間元気な時は肉を喰わねばならぬ。




 食後、仙台市を脱出し、夜八時に天童市へと到着。今夜の宿となる街だ。将棋で有名な街だと聞いていたので、その辺に飛車とか落ちていたりするのかと思っていたが、そんなことはなかった。

 予約してある宿に行くと、受付には上下スウェットの兄ちゃんが。予約名を告げると、いの一番に部屋の鍵を渡してきたので、宿泊カードに名前などを記入しなくていいのかと、暫くそのまま待ってみる。すると兄ちゃんは、何かを思い出したかのように奥の部屋へと引っ込んでいった。やっと思い出してくれたか、と思ったのも束の間。兄ちゃんが手に持ってきたのは、ビールと柿ピーであった。御予約の客に振舞われるサービスなのだという。成程、それはそれは御親切に。だが違う。これじゃない。いいからさっさと記入用紙持ってこいハゲ。

 肉のおかげでまだ活力が漲っていたので、夜の天童市でも徘徊しようかと外に出てみたが、まだまだクソ寒かったので速攻で帰宿。そのまま爆睡。


 続く


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