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東北レポ 後編 2012/5/13(日)
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旅日記ラスト・・・・にしようと思ったけど、長くなったので分割




東北・北陸隠遁記(3)




4月6日


 天童市の雪の朝。折角の将棋駒の名産地なのだから、将棋資料館なんて所へも行ってみたかったのだが、この日は予定が押しているため早々に出立。尚、私の棋力はそこらへんの小学生以下である。

 友人の「チラっとだけ最上川を見たい」(通称チラモガ)という願いをサッっと済ませた後、本日の最初の目的地である立石寺へ。この二箇所と、先日の平泉を訪れた事で、芭蕉が詠んだ東北三大句の地を制覇することができた。曰く、「五月雨を あつめて早し 最上川/最上川」 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声/立石寺」 「夏草や 兵どもが 夢の跡/平泉」の三句だ。まあ例によって三大とかは私が勝手に言ってるだけなのだが。

 立石寺は、別名「山寺」とも呼ばれる、文字通り岩山の上に建てられた寺院だ。山の頂上付近にある五大堂からの景色は、山形県有数の観光名所としても知られている。
 旅の直前にヒザをイワしていたため、立石寺の千を越える石段に若干の不安を感じていたものの、実際に登ってみると思ったほどではなかった。階段に残る雪で足を踏み外し、何度か死にかけるも、30分ほどで最上段の五大堂に到着。道中にそそり立つ巨大な岩壁や、頂点からの眺めは可也のものだったが、五大堂の中に馬鹿が残していったシールや落書きや柱の名前彫り等が醜かった。やった奴は死んでしまえ。




 次は山形市に入り昼食。・・・の予定だったのだが、目をつけておいた食いもん横丁的な場所が全く機能していなかったため、直ぐに予定を変更。何一つ、本当に何一つせぬまま、我々はこの街を後にした。100円パーキングで払った100円が、我々が山形市に落とした金の全てだ。

 山形といえば、上杉軍が最上勢を攻略せんと進軍した地であり、最上義光の居城である山形城の跡地も立派な公園となって残っているのだが、何故かこの時わたしはポッカリと山形城の事を忘れていた。帰ってくるまで思い出さなかったくらいだ。多分、次に訪れる米沢の事で頭がいっぱいだったのか、もしくは私自身があまり最上氏に興味が無かったからだろう。山形県民の皆さんすいません。




 山形市の南側には、山形城の前線である多数の出城があり、上杉勢に落城させられた畑谷城や、堅固な守りで十日余りも耐え抜いた長谷堂城、空気な上の山城などもあったのだが、当然これらも完全に忘れていた。まあこんなん全部探し回ってたらえらい時間食うのでハナから行くつもりはなかったが。

 正直私が行きたかったのは、出城群がある東側ではなく、西側の蔵王の方であった。ここには御釜と呼ばれる火山湖があり、観光誌でその写真を一目見たときから是非行ってみたいと思っていたのだが、残念ながらまだ観光シーズンに入っておらず、ロープウェーが動いていないという理由で、今回訪れることはできなかったのだった。まあ、ここがボツになって時間が空いたからこそ、花慶巡りの旅というものを思いついたわけなのだが・・・。

 一応、ネーミングの相似的に、ザオウとラオウ様のツーショット写真を撮っておいた。



もしまた来る事があるなら、今度は御釜をバックに撮りたい。







 さらに南下し、適当に入った居酒屋チェーンみたいな店で昼食。盛岡で食したじゃじゃ麺があったので、再び食べてみたが、ここのは普通のジャージャー麺と大差ない味であった。

 ちなみに、山形と米沢と繋ぐこの辺りは、おそらく直江兼続率いる上杉軍の殿軍が、最上義光の大軍を相手に退却戦を繰り広げた辺りだと思われる。花慶のクライマックスとも言える、前田慶次郎、宇佐美弥五左衛門、藤田森右衛門、水野藤兵衛、韮塚理右衛門の皆朱槍五人衆と、捨丸、岩兵衛、骨の僅か八騎が、二万の最上勢を押し返したあの地だ。裏の世界で生きてきた捨丸達は、そんな合戦の桧舞台で馬を駆れることに歓喜していたが、同様に陽の当たらぬ生き様を送っている私が同じ地で車を駆っても、あまり感動は無かった。





 午後二時半、米沢へと到着。旅日記の冒頭でも述べたとおり、今回の我々の旅の裏目的地にあたる場所だ。

 そしてここで、私はある案を実行する事にした。「歩く」という選択だ。見知らぬ街の散策が大好きな私にとって、この「歩く」という行為こそが、旅の楽しみのひとつなのだ。時間が無かったり、疲れ果てていたり、クソ寒かったりして、現時点まで全く歩けていなかった私は、この米沢でそれを実行に移そうと考えたのである。巡りたい場所が比較的近くにかたまっているという点からも、まさにこの米沢こそが、絶好のウォーキングポイントだと確信していたのだ。


 駅近くに車を停め、いざ出発。ケータイの地図アプリと方位磁石を駆使しながら、右も左もわからぬ地をひたすら歩く。なにやら近代的なオリエンテーリングをやっているような気分になり、非常に楽しい。道を聞くために現地の人に話しかけるのもまた楽しい。琉球を訪れた際に慶次が言った「ただぶらぶら歩いて 風土を見 人に会えばいい」という言葉の意味が、身に染みて伝わってくる。

 しかし、そのウキウキ気分は、三十分も経たぬ間に曇り始めた。


 遠い・・・


 地図を見て想定した距離と、実際に歩いて体感する距離のギャップに、次第に不安を募らせる私。なにより、開始一時間にして疲れ始めていたのが想定外だった。理由は今朝の立石寺だけではない。これからたんまり歩こうかと言うのに、何故か長靴を履いてきてしまっていたからだ。スタート時に雪が降っていたため、万が一を考えてのチョイスであった。なんというアホさか。

 更にその焦りに輪をかける事態が起こった。最初の目的地に設定した一花院跡を全く見つけることができず、発見までに凄まじい時間と労力を消費してしまったのだ。慶次の眠る地だと聞いていたので、それなりの寺を想定していたのに、まさかこんなトタン張りのボロボロな所→だとは思わないじゃないか。そら見過ごすっちゅうねん。

 先に書いたとおり、ここ一花院は、かつて前田慶次郎の墓があったとされる寺。・・・なのだが、今は見ての通り廃寺になってしまっているらしい。現在ではその墓も失われ、どこにあったのかも不明となっているとのこと。仕方が無いので、もはや掠れて文字も読めぬ謎の石碑に向かい、とりあえず拝んでおいた。
 ケンシロウは自分の墓標なんかに興味ないって言ってたけど、慶次の旦那はどうなんだろうね。要らんとも言いそうだし、自ら奇天烈な墓をこしらえそうでもあるよなあ。本心ではいくさ場で死にたかったのかも解らん。あと今更ですが、慶次に関する私の発言は全て「花の慶次内における前田慶次」基準なので、そのへん御理解下さい。




 次に向かうは、林泉寺。この米沢に眠るもう一人の戦国武将、慶次の終生の友であり、花慶からのスピンオフ作品で主役にも抜擢された、あの直江山城守兼続が眠る場所である。見た目インパクト最強の「愛」の兜や、数年前に大河化された実績、ネットで彼の花慶画像を目にする頻度の高さなどを考えても、世間的には慶次より遥かに知名度が高い事は間違いないだろう。
実際街中でも彼をモチーフとした米沢市のマスコットキャラ「かねたん」のイラストは頻繁に目にしたのに対し、慶次をモチーフとした「ケージロー」は全くと言っていいほど確認できなかった。米沢が推しているのは、慶次ではなく兼続の方なのだ。何故だ。かねたんは花慶でイチモツを晒していないというのに。しかも、ホモなのに。あ、ホモだからか?

 地図とアプリを照らし合わせながら、なんとか目的の場所へと到着。既に体力は底をつきかけ、時間もヤバい状態だが、とりあえず二人の墓に参る事が出来ればほぼ目的は達成となるので悔いは無い・・・・と考えていたのだが、ここで思わぬ誤算が生じた。

 我々が到着したのは、米沢城の跡地に作られた、松が岬公園であった。米沢城といえば、花の慶次でも関ヶ原時の直江兼続の居城として登場したり、伊達政宗が生まれた城としても知られている名城だ。現在でもその名残を残しており、四方を堀に囲まれた公園の景観は素晴らしいの一言。また、上杉謙信公を祀った上杉神社をはじめとした、様々な関連スポットが園内に点在しており、その中には直江兼続の墓地も――――

無かった。



 どこでどう間違ったのかわからないが、どうやら下調べの際に、私はこの公園内に、直江兼続の墓がある林泉寺も一緒に建てられているものだと勘違いしたらしい。米沢城=兼続、という印象が強かったからだろうか。改めてアプリで調べてみると、目的の林泉寺は、ここから更に数キロ先にある事が判明。もはや、そこを経由して車まで戻るような時間は残されていなかった。


 余裕を持たせての三時間プランだったというのに、気付けば残りは一時間・・・行きたい場所もろくにまわれず、疲労の所為で散策を愉しむ余裕もない状態・・・出発前から一番気合を入れていた日だというのに、結果はこのザマ・・・。まごう事なき失敗。完全なる敗北である。

 だが悲観する事はない。

「ふふ・・・馬鹿だなあ 戦ってやつは、負け戦こそおもしろいのよ!!


 そう。この状況を愉しんでこそ傾奇者。予定通りに進む勝ち戦など面白くない。この逆境の中でいかに事を上手く運ぶかが、戦の醍醐味なのだ。


 そん中で私が選んだのは、「走って車に戻る」という道であった。走って30分で車へと戻り、残り30分で予定している残りの施設を全部廻るという強行プランで挽回を図ろうと考えたのだ。「我、傾奇者」という自己暗示をかけることにより、枯れた筈の体力を振り絞って走り続ける長靴のオッサンin米沢。ただ、私には目標があったから頑張る事が出来たが、興味もないのにつきあわせた友人には本当に悪い事をしたと思っている。

 そんな頑張りがあったからか、道中小さな奇跡が起った。通りがかった店のショーケースの中に、直江兼続の甲冑が展示してあったのだ。観光地でもなんでもない場所でのいきなりの遭遇に面食らったが、それは直ぐに歓喜へと変わった。旅行前に調べても、現在何処に展示されているのかよく解らなかったために半ば諦めていたのだが、まさかこんな形でお目にかかれようとは。恐らくはレプリカなのだろうが、そんな事はどうでもよかった。ただ、この偶然の出会いが嬉しかった。やはりこういったものは、予定されているものより、偶然の方が喜びが大きい。まさしくこれが負け戦の醍醐味というやつだ。


 無事に車へと戻った後、まず向かったのは、堂森善光寺前田慶次郎の供養塔が建立されている寺院だ。謎多き人物であるが故に、「ゆかりの場所」なるもの自体殆ど存在せぬ前田慶次にとって、唯一と言っていいファンの聖地。それがこの寺なのだ。
 まずは供養塔に向かって礼。そして次に―――と思ったが、これで出来ることは全て終了してしまった。普段は、花慶モデルの前田慶次開運御守りの販売であるとか、特注の傾奇者陣羽織の試着だとかが出来るらしいのだが、拝観時間を過ぎていたのか、この日はもう既に人の気配が無かったのだ。
 仕方が無いので、月見平なる、慶次が日々月を眺めていたとされる小高い丘を見てみようとしたが、中腹辺りから獣道と化し、更には雪が道を阻み始めたので、断念。単に疲労が増しただけという結果となってしまった。


 因みに、この寺院の近くには、晩年の前田慶次が過ごしたとされる無苦庵の跡地がある。花慶のスピンオフ作品「義風堂々!! 直江兼続 -前田慶次月(酒)語り-」にて、穀蔵院ひょっとこ斎と名を変えた慶次が、月と共に直江兼続の物語を語り合っている、あの場所だ。時間があればここも是非行ってみたかったのだが、下調べでも正確な位置が解らず、しかも現在は土塁の一部が残っているだけということなので、サッパリと諦める事にした。


 次に駆け込んだのは、宮坂考古館。米沢に関する歴史資料や武具が展示されている博物館で、前田慶次郎の甲冑である「朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足」もここで一般公開されている。優先順位としては直江山城の墓に行くのが先なのだが、思いっきり通り道にあったため、こちらを優先した。

 入館料300円を払い、館内へ。実際に目にした現物は、もちろん197cmの男が纏うような大きさではなかったが、綺麗な朱に塗られたその艶やかな色合いは、まさに傾奇者のそれであり、さぞ戦場の中で映えたであろう事を感じさせた。先日放送された「ザ・今夜はヒストリー」の前田慶次の回でも、ドン小西がこの鎧を絶賛するというバカバカしいコーナーがあったが、満智羅や鱗札など、素人が見ただけでは気付かない点をいくつか紹介していて、結構勉強になった。サンキュードン。
 なお、その番組では、宮坂考古館には他にも慶次愛用の313センチのロング朱槍とか、へのへのもへじ入りの慶次愛用徳利などが展示されていると紹介されていたが、どうやら私は全て見逃したらしかった。無念だ。もっと早く放送してくれていれば・・・。
 因みにここでの滞在時間は、歴代入館者の中で最速と思われる三分。一分百円・・・キャバクラ並の値段である。



 そして最後に、改めて林泉寺へ。政宗の時同様に、拝観時間という壁に阻まれて参拝できぬのでないかと心配していたが、なんとか無事に入る事が出来た。というか厳密に言うと、やってなかった。どうやら今年は雪が多すぎて、拝路が完全に除雪できておらぬため、まだ受付すら初まっていなかったようだ。だからと言ってここまで来て諦めるわけにはいかない。見たところ、別に立ち入り禁止の札や、チェーンがかけられているわけでもなかったので、これは「雪があるけどそれでも拝観したい方はどうぞ」という意味であろうと勝手に解釈し、境内の中へ。

 人のいない受付に拝観料の100円玉を置いた後、順路を逆流し、直江兼続公の墓の前へ。周りにはまだ大量の雪が残っていたが、そんなものは障害にすらならない。こちとら百年前から長靴履きだ。そういえば慶次が米沢に発つ前、「雪の中に骨を埋めることになるか・・・」と言っていたが、慶次の墓も、兼続の墓も、まさにその言葉通りだな、と感慨に耽りながら合掌。同時にこの瞬間、米沢における全ミッションが終了した。怒涛の三時間であった。




 と思ったのだが、最後に、米沢駅へと訪れる事にした。これだけいろいろな所を廻ったにも関わらず、慶次グッズを一つも購入できていなかったため、駅の土産物コーナーに一縷の望みを託したのだ。だがそこで発見したのは、チャチなグッズよりも遥かに魅力的なブツであった。








こ、これは名物米沢牛をふんだんに使用したシンプルかつ豪快な見た目でも知られる超メジャー牛丼駅弁当、「牛肉どまん中」
しかも原御大描き下ろしの慶次イラストが施された400回忌記念バージョン!
原御大の絵と、米沢牛を一片に手に入れられるとは、まさに贅の極み!

 1100円という駅弁としては微妙に高いお値段も全く気にせず、即決でこれを購入。もはや他のグッズになど目もくれず、ホクホク顔で米沢を後にしたのだった。





 が、車中で封を開けてみると




























 山形を抜け、東北五つ目の県となる福島県へと突入。これで青森を除く全ての東北県制圧となった。いずれは青森にも・・・と言いたいところだが、今回寄らなかった事で、もう俺は一生青森には行く機会のないまま死にそうな気がする。まあ別に悔いは無い。

 午後六時、喜多方市へと到着。目的は勿論ラーメンだ。東北で有名なラーメン所と言えば、やはり喜多方。いちラーメン好きとしては、今回の旅の中で最も食べたかったのがこの喜多方ラーメンだと言っても過言ではない。
 ただひとつ、腑に落ちないことがあった。全ての店がそうというわけではないのだろうが、ガイドブックに載っていた喜多方ラーメンの店の閉店時間が、やけに早いのだ。いや、早いと言うか、飲食店にとっては今からが掻き入れ時である午後六時〜七時くらいに店を閉めるスタンスをとっているのである。どうせ夕飯時を狙わないのだらいっそ昼二時辺りに閉めればいいと思うのだが・・・。ともかくこの不可解な閉店時間が、我々が急いで米沢を発った原因のひとつになったことは言うまでもない。

 選んだ店は、源来軒。喜多方ラーメンの発祥の地と言われる、同ジャンルの中で最もフェイマスな店だ。店内に犇きあう有名人のサイン群が、そのネームバリューの高さを示していた。
 餃子や炒飯も食べてみたかったが、米沢牛弁当がまるまるひとつ残っている現状を考え、グッっと堪えてラーメン一杯だけを注文。味は全くもって特色の無い醤油系ラーメンだが、シンプルであるが故に美味。Wスープの蔓延した現代拉麺社会に我が身ひとつで立ち向かう旧世代のプライドと底力を見せつけられたような気がした。ただ関西人的には、やはりナルトの存在意義だけはわからん。



 午後七時、会津若松市へと到着。ここも花慶と関わり深い場所だが、もう日がくれてしまっているため、早々に宿へ。広大な田畑のど真ん中に建てられた一軒家のユースホステルが、今夜の宿泊地だ。十数年前に脱サラしたオーナーが自力で建てたという、手作り感溢れる造りがなんとも言えない。


 ホームページには、オーナーが車を出して宿泊客を温泉まで送ってくれるサービスがあると書いてあったのだが、すっとぼけているのかなんなのか、全然そのような気配が無かったので、温泉の場所を聞いて自力でその施設へ。料金を払う場所を探しているうちに風呂までたどり着いてしまうという無警戒な施設であったが、湯のほうは最高であった。立石寺と米沢マラソンがあった今日は、なんとしても風呂に入りたかったのだ。


 帰宿後、牛肉どまんなかを半分ほど味見。美味し。昼間の疲れと風呂上がりの火照り、それに満腹感が加わった今、もはや私には金曜ロードショーの紅の豚を見ながらおときさんの棒読みに舌鼓をうちつつ眠りにつくという至福の夜が待っているはずだった。

 しかし、そんな私の涅槃寂静を侵害する者が現れた。
 この宿のオーナーである。

 夜九時半、宿泊客全員(とはいっても私達二人と女性一人だけ)が、茶の間に集められた。今日という日にたまたまこの宿で顔を合わせた見知らぬ者同士が、茶を酌み交わしながら様々な事を語り合う―――。それがこの宿の慣例なのだそうだ。まあこういうユースホステルにおいては然程珍しくはないスタイルではある。あまりそういった場は好きではないとはいえ、折角のお誘いなのだから参加しようと軽い気持ちで考えていたが、正直甘かった。

 茶会は、語らいではなく、オーナーの独演会であった。眠かったのであまり内容は覚えていないが、殆どが震災関連の話であったと思う。私とて震災被害者のリアルな言葉というものに興味が無いわけではない。家が流されたとか、放射能漏れで避難を余儀なくされたとか、そういった話題であれば眠い目も覚めたやもしれぬ。しかし申し訳ないが、そのどちらとも関わり薄いこの地域の方の体験談となると、どうにもこうにもインパクトがない。「放射能で避難を余儀なくされた人は働かなくても以前の倍の金を貰っている」とか、「そういう避難者の優遇ぶりをここの地元民が妬んで飲み屋でケンカになっている」とかいう人の心の醜さを伝える話など、こちとら全くもって聞きたくはないし、そんな話題ではこの重い目蓋を開かせることはできないのである。

 他の客二人はそれなりにオーナーの話に絡んでいたようであったが、開始十分で既に意識を失っていた私は、その後一言も発することなく、その場にただ「居続けた」。大人数であればこっそりベッドへとも戻れたであろうが、この少ない人数の中ではそれも難しい。かといってこの場で思いっきり寝てしまっては、向こうも気が悪いだろう。こうなっては向こうから「お疲れのようですね」と就寝を勧めてもらうほか無いと思い、己の今の眠気を包み隠す事なく表現し続けてみるも、口を動かす事に忙殺されていたからか、オーナー殿からはそんな気遣いの言葉は一言も発せられる事はなかった。
 おそらく真面目で良い人なのだろう。毎夜行われるこの茶会で客を愉しませるため、日々知識をつめこんでおられる事も容易に想像できる。しかし、いかんせんながら話術が無い。会話のキャッチボールをする気がなく、一方的に喋りたいのであれば、もう少し要点の纏め方を覚え、それでいて膨らませるところは膨らませ、最後にはオチをつける、といったくらいのトーク力を身につけて欲しい。でなければせめて俺のオネムオーラに気付く程度の気遣いが欲しい。


 零時を回った頃、ようやく解放されて就寝。地獄のような二時間半であった。長靴で走ることより、ただ坐ってるだけのほうが辛いという事を、初めて知った。


続く


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