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北陸レポ(旅日記ラスト) 2012/5/19(土)
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今度こそ旅日記最後。北陸編。




東北・北陸隠遁記(4)





4月7日


 この日はまず会津若松市の観光―――といきたかったのだが、描いていたプラン通りには行かなかった。朝食をいただいてさっさと出発したいのに、友人が昨日の続きとばかりに話しこけていたからだ。まあここで被災関連の話をすることもまた「被災地訪問」の一環であるわけで、それが今回の旅行の最優先事項である以上、単なる付き添いという立場である私には口を出す権利は無いのだ。

 八時半を回ってやっと出発する事が出来た我々は、まずは会津若松城へ。花慶で伊達政宗が秀吉の招集に応じずにうだうだしていたあの城だ。慶次が寝返りをうって保春院にイチモツを見せつけたり、小次郎が縮み上がったイチモツを慶次に掴まれたりした場所でもある。関ヶ原の時代には上杉景勝の城として再登場し、革籠原で家康に袖にされた景勝がテンションガタ落ちで帰還した城としても知られる。





 ただ個人的には、ビッグボディチームがフェニックスチームに大惨敗を喰らった場所というイメージの方が強い。






 そういった理由の他にも、この会津若松城は、今回我々が訪れる城の中で唯一、復元されたものとはいえ、その当時の形を残したままの「城」であるため、出来れば中に入ってしっかりと見ておきかったのだが、残念ならが時間の都合により、外から写真を撮ることしかできなかった。この日は今回の旅行の中で、一日の移動距離が最も長い日であったため、とにかく時間が無かったのだ。


 会津若松には他にも、ご当地出身の野口英世関連の施設や、猪苗代湖などといった観光スポットもあったのだが、先と同じ理由で断念。なんか先日からアレが出来なかった〜コレが出来なかった〜って書いてて不満だらけの旅のように思われるかもしれませんが、限られた時間と予算の中ではほぼ完璧にこなせてる愉しい旅なので、大丈夫です。





 会津若松を抜け、ここで東北の旅は終了。進路を西へととり、北陸地方へと入っていく。個人的には南下して関東地方に行ってみたかったのだが、日本海側を走りたいという友人の意向を優先し、このようなルートになった。



 正午に新潟へと到着。四日ぶりの日本海だ。なんとなく新潟=米所=田舎というイメージだったのだが、実際に突入してみるとそのイメージは180度覆された。流石は政令指定都市。舐めたらアカン。フェリーで寄港したときから薄々感じてはいたが、新潟はそこらの東北の主要地なんかより遥かに都会であった。これではもう両津も「新潟で米でも作ってろ」(こち亀第一話より)なんて台詞は吐けないだろう。

 ちなみに、かつて越後と呼ばれたこの地は、慶次が山上道及と数年ぶりの再会を果たした場所でもある。山形での退却戦で重症を負った折に、慶次のイチモツから放たれた小便で傷の中の泥を洗い流してもらったあの道及様だ。長き漫画の歴史の中でも、あれほど小便をかけられてみたくなるシーンはないだろう。

 だが勿論そんなスカトロを再現している暇は無い。昼飯を食うくらいの時間しか残されていなかった我々は、この地で唯一の思い出となる一食を失敗は出来ぬと、真剣に店を選定。結果、我々は「タレカツ丼」なるものに目をつけた。卵とじでもソースカツでもない、未体験のカツ丼である。なによりこのコシヒカリの本場で、米以外の飯を食う選択肢などあろうはずがない。

 新潟駅のすぐ近くにある政屋(まつりや)でタレかつ丼を実食。白米の上に手付かずのヒレカツをのせただけのような無骨極まりない見た目に、さほど期待は膨らまなかったのだが、これがべらぼうに美味かった。旅行中に食べた飯の中で一番美味しかったと言っていいだろう。東北旅行と銘打ちながら、新潟の飯が一番美味しかったというのもアレな話だが、事実なのだから仕方が無い。





 車に戻る途中、見過ごせぬ看板があったので証拠保存。





 肩当の色、シャツが無い、左手がサポーターという間違い探しはあれど、これは限りなくアウトに近いアウト。というか「お前はもうイッている」ということは、客は「絶頂に達した事に気付かぬまま射精させられる」わけで、これは風俗店としては最低のサービスなのではないだろうか。




 旅中最大の渋滞を新潟市で体験するという意外すぎるアクシデントに遭いながら、ひたすら日本海側を南下。途中、柏崎や上越などといたそこそこの都市を通過するも、ガン無視を決め込み、ひたすら南下。2時には出発した筈なのに、新潟県をやっと抜けた頃には既に日が暮れていた。新潟どんだけ縦に長いんだよ。

 なお、言うまでもないが、佐渡ヶ島に渡っている時間的余裕は無かった。佐渡といえば花慶の中でも屈指の名作として知られる「佐渡攻めの章」の舞台であり、私も髑髏に蓮の花の馬印を掲げて河原田城攻めをしてみたかったのだが、残念ながら夢幻に終わった。





 富山県に入り、訪れたのは黒部市

 黒部と言えばもちろん黒部ダム。裕次郎の一言でビデオ化されなかったという逸話を持つ映画「黒部の太陽」で一気にその知名度を上げ、2002年の紅白では中島みゆき姉さんが地上の星を歌い歌詞を間違えた、あの日本一有名なダムだ。
 出発前に旅のプランを立てたとき、私が最も行きたいと思ったのはこの黒部ダムだった。しかしなんという不運か。蔵王の御釜の時と同じく、ここもまた観光シーズンではないという理由で入場を許されていなかったのだ。今年のオープンは4月10日…あと3日足りなかった。無念だ。今後、東北や北陸への旅をお考えの方は、GW以降の日程で計画を立てられたほうがよろしいかと思う。



 滑川(なめりかわ)という微妙な名前の市を通貨した後、富山市へと到着。今夜はここに泊まることになる。旅の最後の宿泊地だ。

 今夜の飯は、二日連続となるラーメン。富山で有名な食い物を調べても、「富山ブラックラーメン」くらいしかヒットしなかったので、こういう事態になってしまったわけだ。まあ横浜ラーメン博物館で普通に四杯食べて帰ったこともある私にとっては、むしろ喜ばしいことではあるのだが。
 富山ラーメンとしては有名なチェーン店であるという「いろは」なる店へ。看板に偽り無しの黒さで、味は濃厚な醤油味。麺が終わった後は「ねこまんま」に残ったスープをかけて食うというのが正しいスタイルであるらしい。
 ・・・まあ行った店だけで全体の裁定を下すわけではないが、個人的には喜多方で食べたラーメンの方が美味しかった。つか、しょっぱいわ。


 富山駅付近のビジネスホテルにチェックイン。運転疲れがハンパなかったため、ホテルに着くなりシャワーも浴びずに即就寝。宿としては旅中で一番ショボかったが、一番良く眠れた。





4月8日


 旅最終日。この日も日本海側を走り、そのまま帰宅となる。


 富山を発つ前に富山城へ。この城の城主と言えば、慶次にイチモツを掴まれながらも小便攻撃で切り抜けた、佐々成政たんが有名だ。とはいっても花慶の中にも文字でしか出てこないし、ここも城跡なので、外からパチリとやって即退散。





 午前中に石川県へと突入し、やってきました金沢市。花の慶次には数多くの地が登場したが、やはりこの金沢こそが作品を代表する主要地であったことは間違いないだろう。

 まずは利家&おまつ様から、この地を巡ることの許しを得るため、野田山墓地へ。前田家と戦没者、そして市営の墓が一緒にされているというこの墓地の規模は凄まじく、田舎者である私にはとっては眩暈を覚える程の墓の多さであった。

 叔父御を含む歴代の金沢城主や、おまつ様の墓は、一人一人に立派なものが建てられていたものの、木の格子によって近付く事が出来なかったため、遠方から一礼。又左的には一緒の墓に入りたかっただろうけど、仕方ないね。あの世でも膝枕してもらってください。







 次に参るは永福寺。ここには、前田家に代々仕えたという奥村家の墓が奉られている。そう、末森城の城壁の上から、慶次と共にイチモツをボロンと出し、小便鉄砲を炸裂させた、あの奥村助右衛門も、ここに眠っているのだ。

 なんつうか、今しがた見てきた又左の墓と比べると民間感溢れる御墓だが、やはりちゃんと墓前で目の前で手を合わせられるほうが嬉しい。わたしもいつかはふわりと坐れる人間になりたいと思った。

 尚、末森城は能登半島にあるが、現在は焼失して跡形もなくなっているとのことなので、断念。私も小便鉄砲してみたかった。あの二人と並んで小便出来るなら逮捕も厭わぬ覚悟だ。嘘です。



 メインである金沢城へ行く前に、そこと隣接する21世紀美術館とやらに友人が行きたいというので、まずはそっちへ。駐車場代だの入場料だのでしこたま金を巻き上げられたので、元をとらんと、熱心に現代アートとやらを見る。しかし

「この壁の黒い丸、穴に見えるぅ?それともシールに見えるぅ?」
「この木々の映像を見ながらピアノ弾いてみるぅ?」
「このでっかい布、二万匹の蚕で作ったんだぜぇ?」


・・・てな感じのゲージュツの連続に、次第に脳が痛み出した私は、もう何も考えずにただ意味もなく頷き続けるという方法でその場を乗り切ることにしたのだった。これをシュールの一言で片付けてしまっていいのか、前衛的だと褒めておくべきなのか、単に頭がおかしいだけなのか、私には解らない。いやきっとこの場にいる人全員がわかってないだろう。



 折角なので、日本三名園のひとつ、兼六園にも行ってみることに。かつて金沢城の外郭に造られた庭を基礎にしてつくられた、巨大な日本庭園だ。名前こそ知ってはいたものの、イマイチどういう場所なのかよくわかっていなかったのだが、正直言って想像を超える程のモノではなかった。木と池と草と苔と庵がイイ感じに配置された、それだけのものだ。それ以上でも以下でもない。もちろん俗物の塊のような男である私には、木と池と草と苔と庵がイイ感じに配置された庭の趣を理解する事はできないので、やっぱりウンウンと感情の無い頷きを繰り返しながら、その場をしのぐことしか出来なかったのであった。サービスデーで入園料が無料になっていた事が救いだ。



 そんな寄り道をしながら、最後にメインである金沢城へ。御存知、槍の又左こと前田利家様の居城であり、花の慶次の中で様々な出来事の舞台となった、ファンにとってはたまらない屈指のスポットだ。イチモツ関連のエピソードとしては、おまつ様が利家様のモノをぎゅっと握って「気の小さなお人・・・」と嘆かれた出来事などが挙げられる。水丸のイチモツだと思ってたら慶次のでした事件は末森城での事なので、ここではない。



 前田利家像は、城の囲いの中ではなく、外堀の側の歩道添いにあった。花の慶次で描かれてた、あの銀鯰尾兜をかぶってらいらっしゃった。うーん凄い。これだけで見れば慶次より傾奇度が上な気もする。


 城こそ残っていないものの、園内の美しさは素晴らしいの一言であった。立派な石垣や堀は勿論、復元された門の数々や、兼六園から繋がる道路を跨いでかけられた橋など、流石はお金持ちの前田家のお城だと言わざるを得ない豪華絢爛ぶり。仙台の方には悪いが、観光地としては青葉城より遥かに魅力的な場所であった。


 城の側の土産物屋では、米沢で騙くらかされて購入し損ねた前田慶次郎グッズが売っていたので、ここで改めて購入。土産限定モノだという、「戦国武将アーマーシリーズ・前田慶次郎ver」をゲットした。大不便者の馬印が最高にイカス。朱槍がついていれば尚良かった。


 個人的には、町全体の評価という点から言っても、旅の中で一番好印象だったのは、この金沢だった。京都に似た部分がありながら、街の景観や道の走りやすさなどは金沢の方がかなり上回っているように感じた。豊かな城下町だったころの雰囲気をそのまま現代に引き継いでいるというか・・・。東北メインの旅であるのに、割と地元から近めの金沢がベストというのもどうかと思うが、実際そうだったのだから仕方が無い。まあ好印象の理由のなかには、旅中で唯一と言っても良い快晴日に恵まれていたからというのも多分に含まれている事は間違いないのだが。




 市街地から少し抜けたところで、ゴーゴーカレーなる店に入って遅めの昼食。金沢には「金沢カレー」なる名物があり、このゴーゴーカレーはその最大手のチェーン店なのだそうな。かつて日本のカレーをこよなく愛する米国人記者の記事を読んでから、一度行ってみたいとは思っていた。
 金沢カレーには、ソースがかけてあるカツ乗せが必須で、皿はステンレス、スプーンは先割れを使うといったような特徴があるらしい。逆に言えば、味自体にはさしたる独創性は無いとも言える。実際、美味いっちゃ美味いが、まあフツーのカレーであった。


 金沢を抜けると、あとはほぼ家へと一直線。道中の福井県でも、東尋坊やら遺跡やらいろいろ行ってみたい所はあったのだが、そんなもんいつでも行けるので今回はスルー。でももちろん星きれいでしたよ。



 午後九時、京都府の自宅へと到着。丸一週間に及ぶ旅が終了した。


 結局旅路の七割程は運転を担当し
 心身ともに疲れ果てていた私は
 翌日ほぼ一日中を寝て過ごし
 その後二度とかぶくことはなかったという。



 完



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