泰峰
たいほう
登場:第219話
肩書:劉宗武の兄弟子
流派:北斗劉家拳
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北斗劉家拳門下の拳士。
劉宗武の兄弟子。
かつて
霞鉄心に挑むために
北斗寺院を三度訪問したが、いずれも応対した
拳志郎(当時10歳前後)にあしらわれ、人を食ったその態度に激怒。攻撃を仕掛けるが、華麗な身のこなしで全て躱され、最後は顔面に蹴りを食らって敗れた。
後にその様子を「美しき拳を舞う子鬼」と評し、いずれそれは死神の舞となるだろうと語った。
極十字聖拳の創始者である魏瑞鷹が劉家門にいた頃、北斗神拳に挑もうとした彼を劉玄信は厳しく戒めた。「劉家門の許可なくして北斗神拳に手出しはならぬ。」「まだおまえは北斗神拳の敵ではない」と・・・。
なのに・・・どうしてこいつが北斗神拳に挑んでるんだ?子供の拳志郎に手も足も出てないって、敵ではないとかいうレベルですらないぞ。北斗を冠した拳の使い手としては全ジャンルの中でも最下位・・・ジャギにも遠く及ばないであろうこの男が、何故に始祖の拳への挑戦を許されたのだろうか。いや、そんな事を劉玄信が許すはずは無い。きっと彼は師の許可を得ず、独断で海を渡り霞鉄心のもとを訪れたのだろう。実力も無いくせに行動力だけは一人前のとんだうぬぼれ野郎である。
だが待ってほしい。本当に彼はただのうぬぼれ屋なのだろうか?うぬぼれるにしてもそれ相応の力があってこそだ。彼がその自信を得るためには、せめて魏瑞鷹と同じく、同門に並ぶものがいない程の状況は必要なはずだ。
しかしそんな状況はありえない。拳志郎がこのときおよそ10歳程度だとすると、宗武はもう二十歳前後ではあったと思われる。(鉄心が天授の儀のために寧波に行った時、つまり拳志郎が生まれる前から宗武は劉家門に入っていた。)ならば泰峰が日本へ渡った時点で、宗武はもはや相当な実力者となっており、兄弟子である泰峰など遥かに凌駕していたはずなのだ。弟弟子にそんな天才がいる状況で、泰峰に"うぬぼれる"事が出来たとは到底思えない。
もしかしたら泰峰の目的は、北斗神拳に勝利することではなく、その力を見極めることにあったのではないだろうか。彼が北斗寺院を訪れたときの描写を改めて見てみると、どうも「自分の力を誇示する」といったような態度には見えない。勝敗はともかく、鉄心と拳を交える事を目的としているように見える。何のために?。それは勿論、宗武のためだ。己よりも遥かに眩い才能を持った宗武が、いずれ訪れる天授の儀において北斗神拳の伝承者に勝利できるよう、その対戦相手の拳を己の身体に刻んで帰ろうとしたのではないだろうか。
しかしそんな事をすれば、彼が劉家門を破門されることは確実。だが例えそうなったとしても、彼には宗武に勝利させたい理由があった。それは師・劉玄信への償いだ。玄信は死ぬ直前にこう言った。自分はこんな老醜を晒すまで劉家拳の後継者を得られなかった事を悔いていた。故に後継者を得しときは、業火に身を焼かれて天に詫びる事を決めていたと。つまり玄信に自決を決意させるほどの「後悔」の中には、泰峰の弱さも原因にあったということだ。己が劉家拳を継ぐに値するほどの強さを持っていれば、師が心を痛めることもなかった。そんな自分が師のために出来ることは、自らの進退を賭けて北斗神拳へと挑み、その拳筋を宗武へと伝えることだけだったのである。
だが結局泰峰は、鉄心と拳を交えるどころか、拳志郎に「身軽さ」だけであしらわれ、北斗神拳を目にすることはできなかった。しかし彼は帰国して、その時の情けない結果すらも正確に宗武に伝えている。おそらく日本へと発った時点で泰峰は破門になっていたはず。にも関わらず、わざわざ宗武に会って自分のすべらない話を聞かせたのは、先述のような理由があったからに違いない。
鉄心が寧波を訪れたとき、すでに劉玄信が高齢だったこともあって、天授の儀は行われなかった。つまり玄信もまた北斗神拳を体感していないのである。ならばその脅威を伝えられるのは、自分を置いて他に無い。自らを育ててくれた師のため、その師の悲願に応えられる宗武のため、そして自らが身を焦がした北斗劉家拳のため。彼はその才無き拳で出来る精一杯の役目を果たそうとしたのだ。そんな覚悟を持って訪れた男に対し、アッカンベーからのバカアホマヌケ呼ばわりで対応した拳志郎は、小鬼というよりはもはや邪鬼と呼ぶべき非情なるクソガキである。