松井石根
まついいわね
日本軍の
上海派遣軍大将。
蒋介石が下野し
国民党政府が没落するまで、
中国へ攻撃を続ける気でいた。
拳志郎と
北大路との会話の中でのみ登場。実在の人物。
松井 石根(1878年〜1948年)
日本の陸軍軍人。最終階級は大将。日中提携、アジア保全のための運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、南京事件の責任を問われて東京裁判にて死刑判決を受け、処刑された人物。
愛知県名古屋市に生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、在学中に日露戦争に従軍。卒業後、参謀本部に配属され、フランスへと派遣された後に自ら志願して清国へ。孫文や蒋介石とも親交があった事から日中友好を目指していたが、1928年の済南事件を切欠に陸軍内で蒋介石への批判が相次ぎ、張作霖爆殺事件によって日中の対立が本格化することとなった。それでも大亜細亜協会を設立するなどして日中の提携を目指していたが、一方で対日の色を濃くする蒋介石に不信感を抱くようになり、徐々に中国を叩くべき思想へと傾倒。1936年3月14日、関係を取り戻すために南京で蒋介石、何応欽、張群らと会談するも相容れず、その後、西安事件で捕えられた蒋介石が国共合作により抗日へ方針転換したことで、決裂は決定的なものとなった。
日中戦争開戦後、第二次上海事変の勃発を受け上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて上海へ出港。上海陥落後、南京攻略へとかかり、戦いは4日間で決着。この時、事前に略奪や不法行為を厳しき禁じていたにもかかわらず、兵士達によって行為が行われた事を嘆き、軍紀の粛正を改めて命じ、同時に中国人への軽侮の思想を戒めたとされている。その後、蒋介石が信頼していた宋子文を通じて独自の和平交渉を進めようとしたが、「蒋介石を対手とせず」との近衛首相の声明によって日中の国交は断絶。松井自身も軍中央から中国寄りと見られ更迭。帰国して予備役となった。1940年2月には、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔う為、熱海市に興亜観音を建立し、その麓に庵を建てて毎朝観音経をあげるという生活を送った。
軍籍を離れた後、大亜細亜協会会頭として国内各所での講演活動を行ったり、国外視察に出かけるなどしていたが、1945年8月15日の日本敗戦後、戦犯指定を受けて収監。東京裁判において起訴され、司令官を務めた軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑判決を受けた。
1948年12月23日、巣鴨プリズン内で絞首刑により死亡。
(Wikipedia 他より抜粋)