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孫文
そんぶん



 登場:第144話
 肩書:革命家

 中国の革命家。かつて鮫島義山が、彼の革命を財政面で支えたらしい。名前と顔だけ登場。実在の人物。




 孫文(1866年〜1925年)

 中国の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。「中国革命の父」と呼ばれる。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。

1866年11月12日、清国広東省の農家に生まれる。当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、1878年、オアフ島ホノルルに移住。そこで通っていた学校にて西洋思想に目覚めるが、キリスト教に傾倒することを家族に心配され、1883年中国に戻された。帰国後、医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、1894年にハワイで興中会を組織。日清戦争の終結後に広州での武装蜂起を企てたが、密告によって頓挫し、日本に亡命。平岡浩太郎や犬養毅から援助を受けた。1900年に恵州で再度挙兵するも失敗。一方で、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚。また浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。

イギリスで清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表したことで、世界的に革命家として有名に。アメリカ国籍を取得し 以後革命資金を集める為に世界中を巡った。1905年、東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。この時、留学中の蒋介石と出会う。

1911年、辛亥革命が起き、革命政府のリーダーを求めていた各省は、アメリカから帰国した孫文をすぐに臨時大総統とし、中華民国が南京に成立。所属する国民党の実質的な指導者である宋教仁が総理となるが、袁世凱によって暗殺される。広州での活動も上手くいかず、再び日本へ亡命し、梅屋庄吉の支援を受けることとなった。

1919年、中国で五・四運動が広がり、この反日愛国運動に影響を受けて野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断。1923年、孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。しかし反共的な蒋介石らからの反発も強かったとされる。

1924年、中国共産党との第一次国共合作が成立。更には全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行い、日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義に対し東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。

 既にこの頃、末期癌を煩っており、1925年「革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし」との一節を遺言に記し、療養先の北京にて客死。南京に葬られた。
(Wikipediaより抜粋)